書庫2

□御所草子U
2ページ/12ページ


緊張しているのか、表情の固い幸村の肩を孫市が軽く叩いた。

「わかっています」

幸村がにっと笑う。その目は鋭く光っており、いつもの穏やかな幸村ならぬ雰囲気を、孫市は感じた。折り目正しい身のこなしで幸村が立つ。帝が尚侍に耳打ちなさった。

「あなたの身の安全を任せているほどの男ですからね」

「…ええ、頼りになる護衛武官でございます」

尚侍がご返事なさり、期待を込めた眼差しで見守る。集まった皆が注目するなか、

「いざ、参る!」

幸村が爛々として的を睨むように見据え、ギリギリと弓を引く。そして、矢が放たれた。

「お見事!」

貴公子たちから感嘆があがった。矢はドスンと的の中心を綺麗に射抜いている。

「これは引き分けでございますね」

惟任殿がおっしゃると、院も、

「いずれの方も、なかなかの腕前。良いものを見せてもらった」

と頷いた。武官たちによる弓の腕比べは引き分けに終わり、双方に帝と院から褒美が下された。殿上人たちが見守る中、頭を垂れて帝からのお褒めのお言葉を頂き、武官たちが引き上げる。

幸村は立ち上がる前に、一瞬だが山城中将がいらした方を見上げた。

「…」

山城殿と視線がぶつかった。それは瞬きをするほどの短い時間だったが、幸村にはとても長く、そして山城殿の瞳の中に引き込まれるような感覚にとらわれた。何かを言いたいが、それが許される環境ではない。幸村は眉をしかめた。一方の山城殿も、ふっと視線をそらすと、そのまま立って奥へと行ってしまわれた。物足りないような、もどかしいような思いに幸村は襲われたが、どうしようもない。そのまま引き上げた。

宮中ではこのまま、夜も宴が続けられる事になっており、武官たちも参加を許されていたが、幸村と孫市は戻る事にした。護衛すべき尚侍は帝の側で引き続き宴にご参加されるため、その警護は帝の随身たちがする手はずである。今宵はいわば非番だ。何やら疲れたから休むと言う幸村を残し、孫市は出掛ける事にした。

「おおっぴらに遊べるぜ」

ご機嫌である。人々が集まって賑やかな方を避けるようにして、孫市は歩を進める。武官としての弓だの矢だのは置いた、身軽な格好である。頭の中で、あちらこちらの恋人の姿を思い浮かべた。

―突然訪ねたら、さぞや驚くだろう。

一人、ほくそ笑む。そして、ふと思った。

―前にも、こんな晩があったな。そうそう、前田慶次に呼び止められた時だ。俺が一人で庭を歩いていたら…。

「おい」

「うわっ!」

出し抜けに声を掛けられ、孫市は飛び上がらんばかりに驚いた。

「おまえ、前田…!」

「うわの空でブツブツと…そんな無防備だと、鬼に攫われるぞ?」

「…前もそんな事を言ってたな」

それはまさに、前田慶次である。孫市とは対照的に、凛々しい御随身姿だ。

「さっきは見事な腕前だったな」

慶次がニコニコとして孫市の腕前をたたえた。

「そりゃどうも…」

だが、的まで砕くような、ずば抜けた力を見せつけられている孫市としては、素直には喜べない。

「どこへ行く?」

「別に…」

「決まってないなら、ちょっと付き合わないか?」

「嫌だね」

慶次の誘いをすげなく断り、男をかわして脇を通り抜けようとした孫市だったが、

「そう言うなよ」

ひょいと絡めとられたと思った腕は、予想外にがっちりと動かない。

「よせ、俺は忙しいんだ。あんただって、院の側を離れてちゃマズいんじゃないのか?」

「心配してくれるのかい?」

「…違うって」

「そうなのかい?」

悪意のない、本当に無邪気な慶次の笑顔に、

「調子狂うなぁ」

孫市は毒気を抜かれてしまった。

「ま、酒なら付き合ってやってもいいぜ?」

孫市が適当な感じで言い放つと、

「そうこなくっちゃな!付いて来な!」

慶次はずんずんと歩き始めた。

「どこへ行くんだよ」

「すぐそこさ」

慶次はご機嫌である。

「あんた、前田慶次の皮を被った鬼じゃないだろうな?」

孫市が背中に冗談を言った。すると、

「さぁな。どうだか」

ケラケラと男は笑った。

「鬼ならどうする?首をかくかい?」

ぐるりと慶次が振り返る。

「…」

いや、と孫市は言った。

「やめておこう。やるとしたら、酒を頂いてからだ」

人を食ったような孫市の言いように、

「はっはっは!気に入ったぜ」

慶次は盛大に笑った。

その頃…帝と院の御前では、宴が続けられていた。篝火が焚かれた庭、池には舟が浮かべられ、幽玄の世界である。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ