書庫2
□御所草子U
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緊張しているのか、表情の固い幸村の肩を孫市が軽く叩いた。
「わかっています」
幸村がにっと笑う。その目は鋭く光っており、いつもの穏やかな幸村ならぬ雰囲気を、孫市は感じた。折り目正しい身のこなしで幸村が立つ。帝が尚侍に耳打ちなさった。
「あなたの身の安全を任せているほどの男ですからね」
「…ええ、頼りになる護衛武官でございます」
尚侍がご返事なさり、期待を込めた眼差しで見守る。集まった皆が注目するなか、
「いざ、参る!」
幸村が爛々として的を睨むように見据え、ギリギリと弓を引く。そして、矢が放たれた。
「お見事!」
貴公子たちから感嘆があがった。矢はドスンと的の中心を綺麗に射抜いている。
「これは引き分けでございますね」
惟任殿がおっしゃると、院も、
「いずれの方も、なかなかの腕前。良いものを見せてもらった」
と頷いた。武官たちによる弓の腕比べは引き分けに終わり、双方に帝と院から褒美が下された。殿上人たちが見守る中、頭を垂れて帝からのお褒めのお言葉を頂き、武官たちが引き上げる。
幸村は立ち上がる前に、一瞬だが山城中将がいらした方を見上げた。
「…」
山城殿と視線がぶつかった。それは瞬きをするほどの短い時間だったが、幸村にはとても長く、そして山城殿の瞳の中に引き込まれるような感覚にとらわれた。何かを言いたいが、それが許される環境ではない。幸村は眉をしかめた。一方の山城殿も、ふっと視線をそらすと、そのまま立って奥へと行ってしまわれた。物足りないような、もどかしいような思いに幸村は襲われたが、どうしようもない。そのまま引き上げた。
宮中ではこのまま、夜も宴が続けられる事になっており、武官たちも参加を許されていたが、幸村と孫市は戻る事にした。護衛すべき尚侍は帝の側で引き続き宴にご参加されるため、その警護は帝の随身たちがする手はずである。今宵はいわば非番だ。何やら疲れたから休むと言う幸村を残し、孫市は出掛ける事にした。
「おおっぴらに遊べるぜ」
ご機嫌である。人々が集まって賑やかな方を避けるようにして、孫市は歩を進める。武官としての弓だの矢だのは置いた、身軽な格好である。頭の中で、あちらこちらの恋人の姿を思い浮かべた。
―突然訪ねたら、さぞや驚くだろう。
一人、ほくそ笑む。そして、ふと思った。
―前にも、こんな晩があったな。そうそう、前田慶次に呼び止められた時だ。俺が一人で庭を歩いていたら…。
「おい」
「うわっ!」
出し抜けに声を掛けられ、孫市は飛び上がらんばかりに驚いた。
「おまえ、前田…!」
「うわの空でブツブツと…そんな無防備だと、鬼に攫われるぞ?」
「…前もそんな事を言ってたな」
それはまさに、前田慶次である。孫市とは対照的に、凛々しい御随身姿だ。
「さっきは見事な腕前だったな」
慶次がニコニコとして孫市の腕前をたたえた。
「そりゃどうも…」
だが、的まで砕くような、ずば抜けた力を見せつけられている孫市としては、素直には喜べない。
「どこへ行く?」
「別に…」
「決まってないなら、ちょっと付き合わないか?」
「嫌だね」
慶次の誘いをすげなく断り、男をかわして脇を通り抜けようとした孫市だったが、
「そう言うなよ」
ひょいと絡めとられたと思った腕は、予想外にがっちりと動かない。
「よせ、俺は忙しいんだ。あんただって、院の側を離れてちゃマズいんじゃないのか?」
「心配してくれるのかい?」
「…違うって」
「そうなのかい?」
悪意のない、本当に無邪気な慶次の笑顔に、
「調子狂うなぁ」
孫市は毒気を抜かれてしまった。
「ま、酒なら付き合ってやってもいいぜ?」
孫市が適当な感じで言い放つと、
「そうこなくっちゃな!付いて来な!」
慶次はずんずんと歩き始めた。
「どこへ行くんだよ」
「すぐそこさ」
慶次はご機嫌である。
「あんた、前田慶次の皮を被った鬼じゃないだろうな?」
孫市が背中に冗談を言った。すると、
「さぁな。どうだか」
ケラケラと男は笑った。
「鬼ならどうする?首をかくかい?」
ぐるりと慶次が振り返る。
「…」
いや、と孫市は言った。
「やめておこう。やるとしたら、酒を頂いてからだ」
人を食ったような孫市の言いように、
「はっはっは!気に入ったぜ」
慶次は盛大に笑った。
その頃…帝と院の御前では、宴が続けられていた。篝火が焚かれた庭、池には舟が浮かべられ、幽玄の世界である。