書庫2
□それを、愛と呼ぶ。
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朝、出掛けに『遅くなりそうだ』と言ったのが、まさしくその通りになった。
―深夜…と言うよりもう明け方だな。
左近はチラリと腕時計に目をやった。まだ空は夜だが、間もなく朝に明け渡すだろう。
―こんなに遅くなるとはね。
寝静まった部屋に物音を立てないよう、そっと身体を滑り込ませてドアを閉める。当然だが、三成はもう仕事から戻って寝ているようだった。
―だいぶ、飲んだからな…。
今夜は仕事で接待だった。取引先の織田エンタープライズの社長・信長と部下の慶次。それに信長が連れて来た上杉の社長・謙信。いずれもかなり、飲む。それで左近も付き合い上、かなりグラスを重ねた。自分では分からないが、
―今の俺、相当酒臭いだろうな。
そんな身体で、しかもこんな時間に、眠っている三成の隣に並ぶのは何やら気が引けた。確か三成は『明日は休み』と言っていたから、仮に少し起こしてしまったとしても生活に支障はないかもしれないが、
―でも…やっぱり、ねぇ?
三成は元来、酒好きではないし、それに他人の酒臭さというやつは、酒が好きな人間にとっても好ましい臭いとは言えないだろう。
―いくら休みでも、起こしたら気の毒だ。
三成が仕事から帰ったのだって、そんなに早い時間ではないはずだ。ようやく寝入ったのに自分がこんな明け方に起こしたら…やっぱり悪い。左近はそう思った。そこで寝室には行かず、リビングのソファーで寝る事にした。スーツやシャツを脱いで、適当に置くと、
―ソファーで寝るなんて久しぶりだ…。
そう思ったが最後、左近はあっという間に意識を失った。
次に左近が気付いた時には、もう昼近かった。開けられたカーテンから太陽が射し込んでいる。
「三成…?」
太陽をいれたのは三成に違いないが、肝心の本人の姿が見当たらない。まだ開ききらない目で探した左近の視界に飛び込んで来たものは、ハンガーに掛けられたスーツと、ダイニングの椅子の背もたれに引っかかったシャツだった。問題は、その胸元だ。
「あ…」
左近は目を見開き、ガバッと起き上がった。
昨晩、左近はとにかく飲んだ。信長は途中で迎えが来て、秘書の森に付き添われて引き上げたので、接待はそれでお開きになるかなと思ったのだが、とんでもなかった。
―ザル、ウワバミ…いや、化け物だな。
左近は謙信と飲むのは初めてで、噂で『かなりの酒豪』とは聞いていたが、その前評判に間違いはなかったと内心、深くうなずいた。謙信はとにかく、変わらないのだ。顔色も声のトーンも、そして飲むペースも。左近とて決して弱い方ではなく、むしろ強いと言われる方だが、謙信の前では兜を脱いだ。しかも同席するのは、これまた酒豪の前田慶次…酒宴は終りなど見えずに延々と続いた。店は信長の馴染みの高級クラブで、接待で良く行く左近も顔馴染みだ。
「ちょっと失礼」
いい加減、酒に飽きた左近は、気分転換に化粧室に立った。そこは、勝手知ったる店だ。迷う事なくたどり着く。
「…やれやれ」
一応、用を足して手を洗い、ついでに顔も洗う。冷たい水が、酔った皮膚に気持ち良かった。そう感じるだけ、左近は珍しく酔っていたのだ。
「きゃっ!」
「おっと。」
化粧室を出た所で、店の女性とぶつかってしまった。店側の不注意だが、これまた左近が酔っていたからと言える。普段ならこんな事はないのだ。
「島様、失礼を致しました…お怪我はありませんか?」
「あぁ、大丈夫だよ。」
「私がボンヤリしていたせいで…本当に申し訳ありません。」
女性はお得意様でもある左近に、しきりに謝った。
「ちょっとぶつかっただけだし、何でもないよ。」
「あの…でも、胸元に…」
女性が本当に申し訳なさそうな顔をして、左近の胸元を指し示した。そこには女性の口紅が、かすめるように付いてしまっている。
「クリーニングに出させて下さい。今、新しいお召し物を用意いたしますので…」
店のマネージャーもやって来て、女性と二人でそう言ってくれたが、
「いいよ、そんな大袈裟な…高いもんじゃないし、それに上着のボタンを閉めれば隠れてしまうしね。」
「でも…」
どうしても、と言う女性とマネージャーからクリーニング代を渡され、あまり断るのも角が立つかなと、左近はそれだけ受け取って済ませる事にした。それでまた席に戻って謙信や慶次と飲み続け…そんな事があった昨晩を、今の今まですっかり忘れていたのだ。
椅子のシャツは、その胸元の口紅を、左近の方に向けるようにして掛けられている。左近がシャツを椅子に掛けた記憶はないから、やったのは三成だ。