稲妻11

□結んだ指の強さに縋り付いて君の孤独を離さない
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「嫉妬なんてしなくてもなまえは俺以外に目をやることなんてない。分かっている。それでも嫉妬するのは自分に自信がないことの表れだ。」

バダップがなまえに毛布をかけ直す。
ついさっきまで話していたとは思えないほど、静かに寝息をたててなまえは眠りに落ちていた。


「なまえはそんな俺ですら受け入れる。」

睫毛をしおらしく伏せ、眉をひそめるその面付きは、今までに見ることのできなかったバダップの泣きそうな顔だった。
しかしエスカバは不思議と驚かなかった。それどころか、ああ本当に表情豊かになったものだ、と感慨深い気持ちになる。
これまで他に誰がこんな彼を見ることができただろう。
それはなまえと今この場にいるエスカバだけに違いなかった。
バダップが悲しげに、しかし実に人間らしくて年相応の、それでいて幼く愛しさに満ちた笑顔を、眠る彼女に向ける。
彼はバダップがなまえに恋をする理由を理解した。
バダップがなまえに魅せられた理由、己を研鑽することしか知らなかった真摯な銀髪の鬼が人に惹かれていった理由。

「なまえはという人間は優しすぎる。こんなにも上手く出来た人間がいるものかと思う。偽善者ではないかと疑いたくなる。でも違う。上手く出来過ぎていて偽善臭さすらしない。」





バダップにとって、なまえとの出会いは衝撃的だった。

「手始めに、みょうじなまえを80年前に転送する。」

冷たく堅牢な壁の密室。
それは王牙学園の内部と大して変わりないのに、バダップは今でも忘れられない。あの壁の冷たさを思い出す度、触れた手の先から脳天まで悪寒が駆け巡る。
それはパクリ、と。まるで食べられるかのように、少女が姿を消した風景だった。
頼りない少女の華奢な体が頑丈な機械の入り組んだ装置に飲み込まれるのを、バダップはヒビキの隣で見つめていた。

「何故みょうじを?彼女は学園全体でも特に秀でた生徒でもなく健康な体でもない。計画のテストならば彼女のような貧弱な女子は不向きでは。」

チームオーガを結成する際に受け取った生徒全員のデータの中でも一目みて候補から落とした生徒であった。

「これはテストだ、バダップ。例えば、お前のような優秀な生徒が計画のテスト段階でこちらに帰って来れなくなったという事態が考えられないわけではない。それはこの学園として、我が国として最大の痛手だ。しかし試行作業こそ計画の始まり、重要な作業だ。」

最適なのだ、彼女は。
最後のその言葉を聞いた途端、表情を隠すサングラスの下で目を細めて話すヒビキを想像して、バダップは一瞬言葉に詰まり、隣のヒビキを見上げた。
いつもと変わらない。表情は、見えない。
しかし、バダップは不愉快さしか感じない。
「それは彼女の命がもう長くないと知ってのお言葉ですか」と、問おうとして、飲み込む。
そうさせるのはヒビキの威厳であり、申し出を彼女が快諾したという事実だった。
命の冒涜を許すな。国を背負い戦う兵の命は味方であれ敵であれ冒涜を許すな。
そう説いたのは他でもないバダップの隣に立つ軍人である。
バダップはヒビキを軍人として尊敬している。
しかし、その敬慕するヒビキの言葉を今初めて疑った。
一瞬でも、疑った。
なまえをこんなにも機密で重大な計画の一部に組み入れておきながら、万一彼女がこの時代に学園に戻って来れなくなってもいいというようで。
なまえを王牙学園の生徒として見ていないに等しい。
まるで、まさに、モルモットだった。
最悪失われても困らない対象、自身らに比べて小さな命と見下されている命、手の内に掌握されてしまうような命。モルモット。実験台。
もはや軍人の卵にすらなれないと見なされた彼女と、いつか軍を率いるトップになるだろうと期待されている自分との間のブランクに、違和感に、バダップは悲しいと思った。皮肉だと思った。
しかし自分がそう思うことすら、彼女を冒涜する側の人間となんら変わらないのだと思うと自身の心に蓋をするほかになかった。
彼女のインカムを通し、ノイズ混じりになまえの声が部屋に反響する。
目の前のディスプレイに映る彼女の青い目は小さな蝋燭に細々と灯る火のように儚げで、綺麗だと思った。

「みょうじなまえ、帰還します。」


きっとヒビキの自分に対する評価や思惑だって彼女は知っているのだ。
しかし、その僅かな生を、その身を国のために捧げた美しい武人だと、バダップは思った。
そして、きっと彼女は諦めているのだ、とも…最期まで生き尽くすことを、諦めているのだとも、思った。
諦めているから笑えるのか、生きるのを諦めても笑える人なのか、とにかく、そんな悲しい人間を初めて見たのだった。


「提督、みょうじなまえを暫く俺に預けて頂きたい。」
「…何をするつもりだ。」
「優秀でなかろうと命僅かであろうと彼女は王牙学園の生徒です、提督。出席出来なかった分の授業は俺がみょうじなまえの病床について指導します。」





互いに気持ちを言葉にしたことのないこの二人にははっきりとした馴れ初めなんてものはないけれど、互いがいつ恋心をもったのかもエスカバには知る由もないことけれども。二人には、今に至るまでの月日が一日一日を思い出せないくらいにあった。
でもそんなのはきっとどうでもよくて、なまえとバダップが出会った、それだけで十分だったに違いない。
どういう出会いをして、どのように過ごしたのかなんて関係なく。
なまえはバダップという人間に恋をしてバダップはなまえという人間に恋をした。
なまえの幸せがバダップの幸せだった。バダップの幸せがなまえの幸せだった。

「なまえは言った。どうせ死ぬなら外へ出てきちんと学校へ行きたいと。俺はその願いを叶えてやりたかった。」
「その願いはお前によってきちんと叶えられたわけだ。」

バダップはまた悲しげに笑う。

「俺が初めて俺という人間の醜さを曝した時。なまえが何と言ったか想像できるか。『私の目をバダップしかみえないしか見えない素敵な目にしようね。』と言って。自分に包帯を巻くように言った。」

声色は少し悲しげなのに、僅かな表情変化の中で恍惚として語る彼を、エスカバは見逃さない。
悲しみは確かに今彼の中にあるのだろうが、その悲しさも引っくるめて恍惚と、愛おしんでいる。
なまえも、こんな瞳をしていたのだろうか。あの慈悲深く愛しいものの何もかもを愛しとする、聖母のようで、世界をしらない幼い彼女が、目の前の彼に、そういう目で笑っていたのかもしれない。
下顎がきゅっと締まり、咥内で唾が急速に分泌されるのを、感じた。

「彼女もまた、俺の願いを聞き入れたんだ。俺だけにあの青い目を見せるようになった。俺が嫉妬すればするほど肌も晒さず。しまいにはずっと離れずにいるためにその足の自由さえ俺に預けた。」

互いの幸せが自分の幸せ、互いの願いは自分の願い。
これだけ聞いたらとんでもない奇麗事だと思われるだろう。
でも、実際にそうだ。
地球を串刺しにしそうなくらい真っ直ぐに純粋を貫く彼らだからこそ遂げられる綺麗事。
しかし、ほんの一瞬も二人は離れることなく本来のなまえの姿を見ることができるのはバダップのみになった今、皆が近寄らないのは狂気じみていると思っているからで。「最初から」二人がそういう狂気の性質の人間であり、純粋の産物とは思っていないのだ。
一方、今実際エスカバも慄いているが、それこそ二人の幼稚な純粋を知ったからのものだった。狂気からのものというより、可笑しく、滑稽に思うのである。
彼らは狂ってなんかいない。
むしろ純粋すぎるだけなのだと。気付いた途端に、恐ろしくて思わず笑いが込み上げた。
互いが『ずっと』『傍にいさえすれば』満足だなんていう綺麗事と吐き捨てたくなるような恋愛をやってのける人間達が目の前にいることに、エスカバはどうしようもなく気持ち悪さを感じている。
子供の言うことが素直過ぎて刺さりやすい、そういう感覚だ。
確かに、毒を盛られたような感覚だった。
この感覚は…例えるなら砒素辺りかな、といつしか授業で教えられたのを思い出す。

「どんな男もが惹かれる白い肌を傷付けてしまいたくなっても傷付いたなまえが見たいわけじゃない。俺はこんなにもなまえが好きなのだから。」

ゆらりゆらり。恍惚に揺さぶられて自分を映すマゼランに吐き気を覚えながら。
傷一つない肌に巻かれていた真っ白な包帯に爪を立てて握りしめた。
すでに手汗ですっかり蒸れて寄れてしまっている。

「そんなのはエゴだ。」

エスカバには、そう返すのが精一杯だった。

「そうだとも。だから、結局俺がなまえにできることは死ぬまで傍にいることだ。」

綺麗事でしかないのに綺麗事で終われないなんて、そんなのは、…馬鹿げていると。

「軽蔑するならすればいい。理解されないのは承知だ。しかし、邪魔をするならば許さない。」

終わらせたくてそう決め付けてしまうことを一瞬躊躇った自分は、だいぶ情に流されているのだと、軍人として致命的だとついこの間教官から言われた言葉がエスカバに重くのしかかった。
慄き、軽蔑する自分は確かにいるのに、バダップが口を開く度胸が詰まる。
真っ直ぐ過ぎて。ひたむき過ぎて。
直視できない、痛み。
安直に理解してはいけない純粋すぎる思いの重みが、伝わる。

「おいおい今更理解されないのは承知だなんてよく言うもんだ。あの状況を…頑なに自分達に関わるなと俺らに強制するような状況を作ったのはお前らじゃねェか、バダップ。ここまできて邪魔はしねェ。」

彼の想いの重みが真っ直ぐ勢いよくエスカバに落っこちる。
しかし、エスカバの胸の内は、覚悟はまるで傾くシーソーのように、打ち上げられた。

「終わらせよう。バダップ。」

はらり。ぐちゃぐちゃになった包帯がエスカバの手から滑り落ちた。








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