稲妻11

□結んだ指の強さに縋り付いて君の孤独を離さない
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何もかもが囲われたこの硬いコンクリの壁の空間は、自分が思っている以上に反響する。
人気ない朝方ならばなおさらすがすがしく、より二人の空間を作り出して、返ってくる声と衣擦れのさらさら乾いた音がが肌を撫で、鼓動を硬く鳴らした。
−もっとこう、和やかに穏便に切り口を入れて事を進める筈だった。
肌を刺すような朝の冷たさに声まで凍ってしまいそうだった。


「お前、大丈夫かよ……?」
「大丈夫だよ」

たどたどしくも問うエスカバになまえは平然と答える。まるで地べたに向かって落とされたゴムボールみたいに。
よりによって今日はいつになくしれっとしていた。バダップにそっくりだった。
そういう仲になると互いに似るのだろうか。
バダップも、なまえと一緒に過ごすようになってからあの鋭い眼光を放っていたマゼランの眼は彼女の澄んだ青色に些か似てきたのか、一本の太い和蝋燭に灯る炎のような温かさを感じられるようになった。
しかし今日は、彼に温かみを与えた彼女のその青い眼は、両目とも、白い包帯で塞がれていた。

「いや、大丈夫じゃねェだろ、なんなんだよその目!」
「ん、あぁこれ?だから大丈夫だってば。」

エスカバの声を荒げさせているその真新しく真っ白な包帯は、病床に伏せた病人のようになまえの青白い肌にとてもよく馴染んでいた。
当の本人はへらっとしていて、尚且つ、まるで一方的に感情的に話すエスカバを煩わしいとさえ言うように口を噤んでいる。
−あの綺麗なアクアマリンブルーの瞳は、どうなってしまったのだろう。エスカバは何故か昨晩の失敗した目玉焼きを思い出して背筋が震えた。

「なぁ。まさか失明なんてこたぁないよな?」
「……。」

このご時世、大きなダメージを受けても少し金を出せば目の一つや二つくらい治せる時代だ。
視力が落ちようが、傷を負おうが、最悪完全に駄目になっても使い心地が本物の目とあまり変わらないまでの高性能な義眼だってある。
眼に関して言えば、大抵の場合はどうにでもなるほど医療技術が進歩している。
しかし、エスカバは「だから大丈夫」などとは、どうしても飲み込めなかった。
目玉の膜が破れて、どろりと溢れ出した黄身が、白身の上、伝ってフライパンの上まで、そのままグシャグシャに凝固して、グシャグシャ、の、目、玉焼き、ではなくなった、玉子。
全身にぞわりと悪寒が走る。脳裏で、どうしようもなくあの目玉焼きが再生されては潰れる。
しかしそんなことを知る由もないなまえにどんなに心配の言葉をかけても、「わかんない。いつ見えるようになるかな。」と返ってくるだけだった。


「じゃあね、私バダップのところへ行くから。」
「えっ、おい待て、その目でどうやって行くつもりだ。」
「バダップの部屋にくらい行けるよ?」

エスカバを振り払うようになまえは歩き出す。
一応壁伝いではあったが、何の不安も迷いもないというように歩く様子は、まるで見えているのと大して変わらない。壁伝いというより、壁に手が添えられているだけのようにも見える。
心配しすぎなのだろうか、それとも。
エスカバの瞳は揺れる。

明くる日も1週間後も一ヶ月経ってもなまえの包帯は巻かれたままだった。直すつもりがないのか直せないのか、よく分からない。彼女が目に関して何も答えないので周りはもう聞きだそうとしなかった。
ただ、必ずバダップが側にいて、些細な移動の際にも手を取って彼女と行動を共にし彼女の目、手足になっていた。
いつ見てもなまえの隣にはバダップがいて、男女別の訓練の時まで二人は一緒にいるようになっていた。バダップがなまえの側にいなかった時など、あの初日のエスカバとの会話の時ぐらいではなかっただろうか。
彼女の調子が悪くて寮に帰されようものならばバダップもその日の訓練に戻ってくることはなかった。
大人達にはもう話が通っているのか何の咎めもない。
ここまでくるとトイレや着替えはどうしてるのかも謎になるほどだ。
しかし聞けば聞くほど、周りが構えば構うほど日に日になまえに巻き付いた包帯が目立つようになりその異様さが浮き出し始めた。包帯で彼女の白い肌が悪目立ちしていた。
ミストレやエスカバは次第にバダップが暴力を振るっているのではないかと疑ってなまえを問い詰めたが、「有り得ない!」と強く否定されてしまった。
女一人で抱えるにも重たそうな大きな氷塊がその両手に掲げられて地面に向かって思いっ切り投げつけられ粉砕してしまうんじゃないかとようなほどのとてつもない怒りが込められていた。

もはや今となっては誰も問わない。いつしかバダップ以外、なまえに話し掛ける者はいなくなった。ミストレもエスカバも、なまえと話したのは問い詰めた日が最後だ。
その頃にはもうなまえの制服のあちこちから包帯がのぞいて、いつの間にかなまえは車椅子に乗り、その車椅子をバダップが押していた。
おかしい。それを皆が認識しているのに問う者はいない。
毎日なまえはバダップと楽しそうに変わらない柔らかな笑顔で話しているのに、その様子は変わらないのに。あまりに変わらないその笑顔が恐ろしい。

ミストレもこの件に関してもう構うのはやめると言っていたが、エスカバはどうしてもなまえを放っておけなかった。
プライベートに首を突っ込むのはあまりしたくないが、場合によってはバダップをなまえから引き剥がさなければならない。なまえを守らなくてはいけない。エスカバの人情深さがそんな義務感を駆り立てられ始めていた。

「エスカ・バメルです。失礼します。」

あの計画以来久々に足を踏み入れたその部屋は当時より広々に感じた。

「……話はバウゼンから聞いている。」

年齢にそぐわない張りのある野太い声がだだっ広く囲われた部屋に響く。
思えばこの部屋に入る時は大抵あの11人だった、と思い返しながらエスカバは、青灰色の軍服をその恰幅な身体に纏う老人を毅然として見据えながら足を進めた。

「はい。単刀直入にお聞きします。ヒビキ提督は、最近のバダップをどう思いますか。」
「……なんら変わっていないさ。オペレーションサンダーブレイクの時と、何も。みょうじなまえもな。」

エスカバはヒビキの言っていることがよく分からずに小首を傾げた。なまえがバダップのクラスへやってきたのはオペレーションサンダーブレイクの半年後だと記憶しているためだ。ヒビキの言い方だとまるでそれ以前からいたような言いぶりだ。

「……?なまえはいつからこの学園に?彼女はオペレーションサンダーブレイクの半年後にバダップのクラスに転入してきたのでは?」
「いや、元から学園の生徒で医療科クラスだった。その体の弱さ故にほぼ休学のような形になっていた。が、ある日突然専攻する科の変更と出席の意を示した。」

ヒビキは、今更表に出てきてもついていくのは難しいだろうと思うが、と付け足す。なまえは、勉学に関しては勤勉で講義に出られなくても自分でなんとかついてきていたのだが、長いこと動かさずに鈍った身体は今の訓練についていけるはずがない。
ずっと訓練に励んでいたエスカバは身を以って知っている。
彼は、あの蒼白の肌の下で唸る心臓を思い浮かべた。
何故その弱々しい身体を叩いてまで出席を思い立ち、この科のクラスへ来たのか、彼にはなまえという人間が余計に分からなくなった。


「ヒビキ提督、バダップの部屋のカードキーを貸していただけませんか。」

ヒビキは何も言わずにパネルを叩いた。その背後の棚の戸が短い機会音と共に開くと、席を離れてその戸の中のファイルの一つを取り出す。パラパラと数枚めくりながら自らエスカバの元まで足を運ぶ。
カードを取り出すとそれを右手の親指で挟み、そのままその手で目の前のエスカバの頭上に手刀を繰り出した。
間一髪、両手で白刃止めの体勢をとったエスカバの指先にジリッと火花が飛び、同時に風が伝って彼の硬質な髪が微かに揺れた。

「知らなくてもいい真実というものもある。」
「なまえがバダップに何をされているか、暴くべきでないと?なまえを気にかけるなというほうが酷です。」
「さて、お前が真実を知ることとどちらが酷か。」

シュッ、と掠れた音が空を切る。先に動いたのは、ヒビキだ。
エスカバは己の眼をかっ開いた。左手だ。
今度はヒビキの左手の人差し指が、エスカバの右目のまさに瞳孔の手前に、ビッと突き出されていた。
エスカバは、眼前に突き出された爪先から目を離せず、反射的に瞼さえ閉じることすらもできなかった。

「もはやあれは純粋という名の毒。どんなものも純粋なものには勝てない。これほどにまばゆく、恐るべきものはない。故に恥ずべきことながら、儂は毒と貶め、恐れている。」
「純粋が、毒……。」
「それはきっと儂だけでない。大衆からしたら純粋という名の汚物にすら見えるだろう。しかし、決して汚物ではなく、ただただ純粋なだけに過ぎないと儂は思う。」

ヒビキはカードキーをエスカバの右手に握らせた。

「確と見よ。その目で。」



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