稲妻11

□すり抜けた愛
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 ねぇ、少し長話でもしようか。
 突然ヒロトが私の部屋に来てそう言った。珍しく、髪を下ろしたままジェネシスのユニフォームに身を包んでいた。

 特に何か大切な話があるわけでもなく内容なんてのはとりとめもない。それでもヒロトとの会話になんとなく懐かしさを感じた。ちょっとした会話自体は普段からしてるのに変な話だ。
 ヒロトとどうでもいいような長話をしたのは久し振りだった。
 まるでこれから雷門が来るなんて嘘みたいにのんびりとしていた。ヒロトの表情も穏やかで時間も全然気にしていないかのように私のベッドに並んで腰掛けている。
 逆にこういう時だというのに目の前の本人はあまりにものんびりしているから違和感というか、不自然な何かを感じないこともない。チームの子達と合流した方がいいんじゃないかとこちらが心配してしまう、とは言ってもそうやって心配しつつも一方でこの会話を切るのを嫌がっているのは私の方だ。


 私は戦っていない身だからなのか、ヒロト達、いや、ヒロト達の手助けをしている私も含めて、私達のしていることは決して良いことではないと自覚していた。
 それは、まるで私が傍観者のように第三者のように、ヒロト達を客観的に見ることができたからかもしれない。
 けれど、傍観者などというのは酷い妄想で、現実逃避であることも同時に理解しているつもりだ。見て見ぬフリをしているのは自分の都合のいいように事実を捩じ曲げているだけだ。要するに、私もヒロトと同じ"加害者"である。
 その同じ"加害者"が今更こんなことを言うのもずるい話だけども、これからこの世界の一存を決める、重大、という言葉で表すには足りないような事が起ころうとしている。私にはとても予測不可能な、限り無く大きな出来事。
 それがこの子供達に今委ねられている。
 大人の私一人がそこに加わったところでこの子達の肩荷が軽くなるわけでもなく何も変わることがない。そのくらい、大きな事。私の隣に並んでいる私より一回り小さなこの背中なんて、きっと今にも押しつぶされて砕けてしまうだろう。
 それを思うと本当に今更だけど、ヒロト達をこのまま行かせていいはずがなかった。そう思っているなら一思いに行くなと言えばいいのに私は何をためらっているのだろう。

「聞いてる?」

 会話の最中に考え事はするもんじゃない。思考が飛躍し過ぎたあまりに返事があやふやになってきた私を心配したのかヒロトが私の顔を覗き込んで視界いっぱいに広がっていてびっくりした。

「ごめんごめん、ぼーっとしちゃった」

 どのくらい経ったかは知らないが、自分の感覚的にはヒロトがこの部屋に来て一時間以上は経ったと思う。
 雷門がいつ来るのか知らないけど、流石にこれくらいにしておいた方がいいだろうか。本人は全然焦る様子もなく穏やかな笑みで喋り続けている。胸が苦しくなった。
 私は唇が重たくなるのを感じながら口を開いた。

「ヒロト、ここにいて大丈夫なの」
「うん。まだここにいたいんだ。」
「そうじゃなくて、時間大丈夫なの」

 本人も一応気にかけてはいたらしい。うーんと、しばらく間をあけてからそう唸ってまた黙った。
 そしてぽつり。

「じゃあ、最後に一つだけ」

 別にこれから会えなくなるわけじゃないのにやけにヒロトの最後という言葉に胸が痛んで、ヒロトの顔に目をやった。微笑んでいる。

「なまえ姉さんには恋人がいたんだって?」
「また随分昔の話をする」
「そんなに昔かい?」
「だって、もう何年も経ってるもの」

 私には恋人がいた。サッカーボールを毎日のように追いかけていたまさにサッカー少年であった彼が。
 私がまだ中学生の頃の話、五年以上も前の話のこと。彼は大好きなサッカーのために留学を決めた。私に待っててねという言葉と一緒に空港での別れ際に抱き締めた温もりだけを残して、ガイコクへ飛びだち、そして死んだ。
 私には未知の世界だったガイコクという場所で、生きている私には未知だった"死"を迎えた彼を、この目で、目の前で見ても酷く離れたように感じた。
 そしてすぐに思った。
 彼は本当に遠くへ行ってしまったのだと。
 届かない、今ここに存在している私には届くはずもない何処かへ行ってしまった、彼。彼の深い赤色の髪が、彼より少し色素の薄い鮮やかな赤髪のヒロトと重なった。

「今でも似ているかい」

 ヒロトは鮮やかな赤髪をかき上げながら少し笑った。

「え?」
「俺と彼」

 その細められた目を見た途端にドロリと背を撫でられた気がした。

「…うん」
「今でも彼が好きだったりする?」
「よく分からない」
「じゃあ俺は?」

 一瞬喉で息が詰まって、考えた。どうしてヒロトがそんなことを聞くのか全く意図が分からなかった。
 勿論彼のことがまだ好きと言われれば好きだけど、わり切れるのかと言われればわり切れると思っている。
 あの日私を抱きしめた彼はいないということはもう痛いほど分かっている。
 だって、棺の中で横たわっていた彼の手の冷たさを私は知っている。彼はいない。
 彼のお父さん、吉良さんには感謝している。葬儀の日、家族でもない小娘に二人だけの別れの時間をくれた。
 私はその日まで彼の家族に「自分が彼女です」などと挨拶をしたことはなかったのだけれど、吉良さんは時間よりだいぶ早く現れた私の姿を見て何か察したのか、少しだけ時間をくれたのだった。
 葬儀の前にあの時間がなかったら私は葬儀の間ずっと泣きじゃくっていただろう。
 だから、似ているだけで彼が帰ってきたわけでないと、幼いヒロトがおひさま園にやってきたあの日自分に一生懸命言い聞かせた。
 私はあくまで大好きだった彼のお父さんのお手伝いをするためにおひさま園にいるのであって、彼の残り香や面影を探すためではなかった。彼のお父さん、吉良さんだってそのはずだ。
 でも吉良さんは彼と同じ名前をこの子につけてしまった。初めてこの子を見た吉良さんは一体どんな心境だったのか私には分かりかねる。
 私はこの子をヒロトと呼ぶたび、その名を呼ぶ自分の声の響きに、常に自分に割り切れているかどうかを自問した。
 でも自答するまでもなく、目の前のヒロトが彼に似ているからって、ヒロトが好きだなんていうのはおかしいのだ。そんなの当たり前だ。
 自答してはいけない。
 自問自答するまでもなく、割り切るべきことなのだから。
 一緒にサッカーをした。ご飯を食べた。宿題を見てあげた。
 隣に座るヒロトは弟のように思っていた。そうだ。ヒロトはわたしの弟のようなものだ。

「好きだけど、多分彼の好きとは違うよ」
「…そっか。」

 ヒロトは一瞬顔を俯かせて、だけどすぐにこちらを向いた。
 じゃあ俺そろそろ行くね、そう言ってヒロトは立ち上がってドアノブに手をかけた。
 ドアを少し開けた時、立ち止まってこちらを見た。彼よりも切長の瞳を揺らして。
 私にはヒロトや他の子供達を引き止める力はない。
 彼らに子供でいることをやめさせてしまったのは紛れもなく大人の吉良さんと私だ。
 ヒロトは立ち上がりもしないでただ見つめている私を見て何かを思ったのか、宥めるように微笑んだ。

「俺はなまえさんが好きだよ。」

 背を向けてヒロトは部屋の外へ踏み出した。
 少し色素の薄い鮮やかな赤色の髪と、小さな背中があの日の空港の搭乗口に消えていく。
 今なら間に合うかもしれない。でも私には引き止める力はない。
 なのに、その小さな背中を捕まえてしまう。


「ヒロト」
「俺は行かなきゃ」
「分かってる」
「でも………ありがとう」

 彼は自分の左腕を掴んでいる私の手の上に自分のそれを重ねた。
 そしてそのまま握ろうとしたのをやめて、代わりにわたしの指先をさらりと撫でた。
 瞬間、今になって理解する。
 あの日、空港での彼の別れ際の悲しそうな目は単に留学で離れる寂しさだけでなく、私が少しでも引き止めてくれるのを待ってたのだと。
 馬鹿だ、私だって寂しくないわけないのに。
 あの日から蓋をしていた気持ちが、言いたかった言葉が、涙が、わたしの胸の底を殴っては突き破り、溢れでてくる。

「行っちゃやだ。寂しい、私だって寂しい」
「…うん」
「ヒロトのばか。私を置いていくなんて馬鹿。なんで留学なんてしたの」
「うん」
「私、本当に一人になっちゃったんだよ。馬鹿、阿呆、サッカー馬鹿」

 ヒロトは私に背を向けたまま私の手を撫で続けていた。
 あの日こうしていたら彼は私のために行くのをやめていただろうか。
 いや、あのサッカー馬鹿はきっとそうはしなかっただろうな。
 あぁでも、それでも、あの日素直にこうしておけば良かった。

「ごめんね。行かなきゃ」
「…うん」
「大丈夫だよ、俺は、帰ってくる」

 そう言って私の方へ向き直ると彼の涙がほろっと私の服を濡らして滲んだ。

「…ヒロト。ごめんね」
「…いいよ。俺は、ヒロトだから」

 ヒロトは濡れた目のまま笑って私から離れていく。
 私も結局は吉良さんのように、彼とヒロトを重ね合わせたかっただけの馬鹿な大人のままだった。
 あの小さな背中がどうしようもなく彼と重なってしまう。私に背を向けてどこかへ呑まれてく彼らは私の中で区別のつけようがなかった。
 …なんて、酷い言い訳だ。
 結局私は"ヒロト"を傷付けて送り出すことしかできないのだ。

 ヒロトが歩いていった方を見る。部屋の外。
 また、彼があの日の空港の搭乗口へ消えて行く。
 あの目立つ赤い髪さえ、私には知り得ない何かに呑まれて見えなくなった。

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