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□見えない手(ミクダイ)
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※ミクリとダイゴはこっそり同棲している設定です。

【見えない手】


その感覚に出くわしたとき、一度は「まさか自分が」って思うだろう?
ましてその時僕が乗っていたのは満員電車でもなんでもない。いや、満員には違いなかったが、走行距離は電車やリニアなんかよりよっぽど短い。
そう思ったのは、ごくごく自然なことだっただろう。
(う、そでしょ……)
身を捩って身体の向きを変え、何とか逃げようとする。しかし、下肢に触れる手の感触は全く変わらなかった。
最低だ、ほんとに。
服の上からとはいえ、他人に身体を探られる気色の悪い感覚。どっと人波が押し寄せ外へ引きずり出されるまで、僕はその嫌悪に耐え続けた。
だってさ、僕は男なのに。
「痴漢に遭った」なんて、まさかそんなこと言えるわけないじゃないか。



目の前の男が、弾けるように笑った。折角の整った顔を勿体ないほどに崩して。
まあ笑うとは思ったけどさ。いくらなんでも指差して涙まで浮かべて笑うことはないんじゃないかい、ミクリさん。
憮然とした顔つきになっていく僕に気付いたミクリが、ヒィヒィ言いながら笑うのをやめる。今更真面目な顔しようとしたって、全然顔面を調えきれておりませんが。
「だって、あなた。男の癖に痴漢って。しかも何処ですって? エレベーター? そんな馬鹿な、気のせいでしょう!」
そしてまた、腹を抱えて笑う。なんか腹立つなぁ。
確かに僕だっておかしいと思うさ。人のたくさんいる電車の中ならともかく、乗っている時間も一分足らず、乗っている人数も十数人程度のエレベーターで痴漢なんてさ。
ましてミクリの言う通り、僕は男なわけだから。
そんなことは自分でも考えた。まさか僕に限ってそんなことあるわけない。誰かの手が偶然触れているだけなのだろうって。
でもね、本当に、あからさまに太股を撫でられたんだよ。こう、ねっとりとした手付きで。下から上に、這い上がるみたいにさ。
それも一回だけじゃない。ここ最近毎日だ。僕が朝、出社時間にデボンのエレベーターに乗ると、必ず。
そうなれば、さすがの僕だってこれは偶然でも事故でもないって思い始めるわけで。
「毎朝エレベーターに乗るほんの一分の隙を狙ってくる痴漢ねえ……。しかも、こんな脳内お子様な石マニア相手に」
ミクリは全く信用していない感じだ。
「その脳内お子様な石マニアに、毎日欲情して押し倒してくるのは誰だよ……」
ぶつくさと文句を言う。そんなことを言えば、彼は綺麗に笑って「私は悪趣味ですから」なんて言い出すんだ。ほんと失礼。毎日苦しい思いして受け入れてるこっちの身にもなれって言うんだ。
ムカムカしながら朝食を食べていると、いつものように趣味の悪い白マントを羽織ったミクリが席を立った。悪趣味っていうなら、その無駄に胸元の開いた服とマントの方が絶対悪趣味だと思うんだけど。
「もう行くの?」
「ええ、リーグを開ける前に相談したいことがあると、フヨウちゃんに頼まれているもので」
食器を片付けながら上品な口調で言う。さっきまで大口開けて笑っていた人間と同一人物だとは思えない。
ああ、ハイハイ。恋人の相談より、レディーからの頼まれごとの方が大事ってわけね。
拗ねてそんなことを言えば、「当たり前です」って笑われた。ほんとムカつく。
けどこいつにはチャンピオンの仕事を代わってもらったって負い目もあるから、僕はあまり強く出ることができない。何だかんだでリーグのメンバーのことを気にかけているのも知っていた。男、女に関わらずさ。
仕事へ行くため外に出たミクリを見送り、僕も野菜ジュースを喉に流し込んで出社の準備をする。今日もまたあのエレベーターに乗るのかと思うと、朝からひどく憂鬱な気分になった。



僕はリーグを辞める少し前から、本格的に父の会社での仕事を始めた。
最初はまあそれなりにやってたんだけど、そちらが忙しくなるにつれて、次第にリーグとの両立は難しくなってきた。それで仕方なくチャンピオンの座を恋人であり、最強のジムリーダーでもあったミクリに譲ったのだ。ほんの二週間前のことである。
ミクリはいつチャンピオンになってもおかしくない実力者だったし、あの性格だからあっという間にリーグへ溶け込んだらしい。
仕事も、奇怪な言動を除けばそれなりによくやってくれているという話を聞いた。少なくとも、デボンの仕事や石探しと言ってはリーグを留守にしていた僕よりは、立派にチャンピオンとしての務めを果たしているようだ。
――と、まあ、彼の方は順風満帆のようたが、問題は僕だ。
仕事が合わないわけではないし、昔から頭だけは良いと言われてきたから、やることはちゃんとこなしてる。ただ一つ、気掛かりなのが毎朝出くわすこの感覚。
(あ、また、だ……)
人が一斉に集まる朝の出社時間。タイムカードや社員専用ロッカーのあるフロアへ行くまでのエレベーターは、いつもぎゅうぎゅう詰めだ。
そんな中、お尻の辺りに変な感覚がある。大きな手で撫でられているような、気色の悪い感じ。
いつもの痴漢だ、と思って後ろを振り返るけど、そこには回数表示を見ながら沈黙する社員たちがいるだけだ。怪しい動きをしている人もいない。
(もう、何なんだよっ……)
ミクリの言う通り、気のせいなのだろうか。でもこの触り方は……。
そんなことを考えているうちに、手は腰から前に回され、僕の、その……大事なトコロをするりと撫で上げた。
「……っ、ひ」
がたん、と止まったエレベーター。押し合い圧し合いしながら社員たちが降りていく。僕も、人波に乗って箱の外へ出た。
当たり前だけど、そこにもう痴漢の姿はなかった。
毎日、朝のこの一分強の時間で繰り返される痴漢行為。そのくらい、って思われるかもしれないけど、僕にとってはそれがかなりのストレスだった。
何だろう。直接触られるのはエレベーターの中だけなんだけど、最近ではシャワーを浴びてるときも、トイレに入っているときも、仕事中でさえ、誰かに見られているような気がして怖いんだ。
一回わざと出勤の時間をずらしてエレベーターに乗ったことがあるけど、やっぱりその日も痴漢は出た。多分、それで何だか見張られているような気がしてしまったんだと思う。
これだけ毎日同じエレベーターに乗り合わせているのに、誰が痴漢の正体なのか掴めていないのもストレスの原因だった。
会社自体は嫌でも何でもないのにこれだけが辛い。というより、不気味だ。
かといって、誰が犯人かも分からないのに、男である僕が痴漢だなんだと騒ぎ立てるのは、こっちが不審者扱いされてしまいそうな予感がする。まさに八方塞がりだったから相談したのに、頼みの恋人はアレだし……。
まあ、僕だってミクリが痴漢に遭ったなんて言えば指差して大笑いするだろうけどさ。

社員証をカードリーダーに通した僕は、真っ直ぐ自分の執務室へと向かう。椅子に腰掛けてパソコンを開くと、メールボックスに父……社長からの連絡が届いていた。
さすがに、おやじには相談できないよなあ。
そんなことを考えながら、メールを読む。社員全員へ宛てたそれには、最近食堂の冷蔵庫に入れてる食材を夜中にこっそり盗んでいく奴がいるから、何か情報があったら総務部に報告してほしいというような旨が記されていた。
食材泥棒とは、また幼稚なことを。毎朝出没する痴漢といい、案外今デボンの中はセキュリティが危ういことになっているのかもしれない。


当然と言えば当然だが、仕事中まで痴漢が現れることはない。時折視線を感じるような気がして背後を振り向くこともあったが、やはりそこには誰もいなかった。
帰りのエレベーターは行きのように皆が皆同じ時間に一斉出社ということがないから、人もまばらで閑散としている。中にいるのはどこかで見知ったような顔の社員ばかりで、僕の存在に気付くと慌てたように会釈をしてきた。社長令息として顔が割れてるものだから、これも当然と言えば当然の反応。何の不自然もない。
そう、どれだけ探しても、僕の周りに痴漢なんて働きそうな人物はいないのだ。

家に帰ってからも、誰かに見られている感じは続く。近くにはミクリがいるのに、どうしても窓の向こうが気になって仕方なかった。
ひょっとしたらストーカーなのかな、とも思ったけど、そんなことを言えばまたミクリに「自意識過剰だ」って笑われるから絶対言わない。ミクリに自意識過剰なんて言われるようになったら、人間としておしまいな気がする。

食事を終えて、シャワーを浴びて、ベッドの中でミクリが今日もしたそうにしてたけど、僕は断った。
最近ミクリとシてるとき、カーテンを閉めているにも関わらず、誰かの視線が気になって仕方ないんだ。そのせいで、全然与えられる快感に集中できなくて、なのに身体は勝手に高められて、結構ツラい。
ミクリは自称紳士だから、僕が拒否したときは絶対深追いしない。ただ、ちょっとだけ深刻な顔になって、「思っていたより大事みたいですね」なんて言ってた。
僕は今朝も痴漢がいて嫌だ、ずっと見られてる気がするって必死に訴えてた気がするんだけど。君の大事の基準はこれですか。
まあそれがミクリだってのも知ってるから、別に怒ったりはしない。昔からミクリはこんな奴だから、こういう関係が案外居心地良かったりもするんだ。
布団に潜って天井を見上げている間も、誰かに見られている感じはずっと続いていた。変だよね。部屋にいるのはミクリだけって分かってるのに。
もしかして僕は、心の病気なんだろうか。
ついにはそんなことまで考え始めて、その日の夜は遅くまでなかなか寝付くことができなかった。

  
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